知る・学ぶ 安浦町の文化・歴史など
- ホーム
- 知る・学ぶ 安浦町の史跡・文化財
- 野呂山開拓跡「勧農坂・立小路」
野呂山開拓跡「勧農坂・立小路」
野呂山頂「勧農坂(かんのうざか・かなざこ)と立小路(たてこうじ)」。ここは、江戸時代からの開拓者の足跡が残る場所。うち捨てられた遺構を初めて訪れた時、安浦市民センターの宮田氏(当時)が思わず発した言葉「ここは、安浦のアンコールワットだ!」
彼がまとめた資料をもとに、野呂山「勧農坂・立小路開拓跡」を紹介します。
※写真は野路神社跡
◆野呂山開拓の歴史◆
野呂山(野路山)は、標高839.4mの膳棚山を主峰とし、東の弘法寺山までの高原の総称で、瀬戸内海国立公園に指定されています。公園内では六甲山に次ぐ高さがあります。
開拓の歴史は古く、「侍屋敷」には平家の落人が住んでいたと言われ、本格的なものとしては、江戸時代からの記録が残っています。
◆江戸時代-本格的な開拓に着手-◆
江戸時代後期、経済的に困窮する御家人や農民を救済するため、広島藩は1828(文政11)年賀茂郡黒瀬組津江村割庄屋佐々木雄平と浦部組阿賀村割庄屋宮尾彦五郎や関係村々の庄屋などと協議し、野呂山開拓を決定しました。入植した村民は、ため池を掘り水路を設け、農地を拓き、獣害防止の石柵を巡らし、道路も造りました。今でも勧農坂には、石畳の道が残っています。
1833(天保4)年には、勧農坂から立小路一帯にかけ約210戸が生活し用所役人も置かれ、一つの村が形成されました。ちなみに当時の人口は、「芸藩通史」によれば、内海295戸1627人、三津口231戸1215人、安登181戸907人で、山頂に同規模の村が存在していたことになります。
しかし1836(天保7)年、大凶作と疫病により死亡者や下山者が続出し、1838(天保9)年には32戸に激減したのでした。そのことが、吉村昭著「花渡る海」に描かれています。川尻出身の水主(かこ)久蔵、紀州沖で遭難しロシアに漂着。苦難の末帰国しましたが、当時日本は鎖国政策下にあり幽閉生活を強いられました。彼の地から種痘苗を持ち帰っていましたが、それが天然痘予防になると、誰にも信じてもらえません。野呂山頂で猛威を振るっていたのはまさにこの病で、小説には「天然痘騒ぎで人々があわてふためいている間、久蔵ははげしいいらだちを感じていた」と、書かれています。
それでも残った住民は必死の努力を続け、寸志米(自発的年貢)を出せるまでになり、藩も一つの村と位置づけ、独立を維持し続けました。
◆明治から昭和へ◆
明治維新後、旧藩士たちの救済政策として入植が再開され、30人が勧農坂に入りました。1872(明治5)年頃も一つの村として機能していました。農業の他に国有林に植林が行われるようになったのは、この時期からです。
しかし、旧藩士による開拓は長続きせず、明治22年頃には中止されました。
一方で、江戸時代からの子孫は1883(明治16)年当時12戸が残り、昭和30年代まで留まった者がありました。
昭和になり終戦後、海外引き揚げ者(多くは満州開拓者)などにより、三たび野呂山開拓が行われました。1946(昭和21)年71戸294人の規模になり、1949(昭和24)年には、川尻小学校野呂分校が設置されました。
払い下げられた国有地での農業は、苦労の連続でした。そんな状況の中、ダイコン栽培に活路を見出し、昭和30年代中頃「野呂ダイコン」はピークを迎えました。しかし、成長を止める病気により危機的状況に追い込まれ、昭和40年代には40戸足らずまで減少しました。1950(昭和25)年瀬戸内海国立公園に指定されましたが、開拓予定地は縮小され離農者が増えました。1970(昭和45)年、野呂分校が廃校になりました。
その一方で、1968(昭和43)年有料道路「さざなみスカイライン」(後に無料化され、現在は県道野呂山公園線)開通により、山頂の観光開発がすすみました。更には、2010(平成22)年ふるさと林道郷原野呂山線が開通し、山頂への利便が向上しました。現在は、安浦町エリアに住居があり、7世帯の自治会が形成されています。
野呂山「勧農坂開拓跡」を訪ねて
「勧農坂(かなざこ)」は、野呂山の北西に位置し、呉市安浦町と呉市広石内の境界にあります。江戸時代後期に入植が始まり、昭和40年頃まで人が住んでいました。
安浦から野呂川を遡り野呂川ダムのある市原の上流、源流域に当たります。険しい登山道を歩いてしかいけない「秘境の地」でしたが、2010(平成22)年ふるさと林道 郷原野呂山線がすぐ側を通るように建設され、容易に訪れることができるようになりました。
◆馬離場(ばりば)池◆
明治1887(明治20)年から、野呂山の天然氷の生産が始まりました。山頂の気温が低いことを利用し冬場作った氷を石内で貯蔵し、夏場に呉中心部で販売し好評を博していました。運搬には馬が活躍し、休憩を取る場所がここ。「馬を離す場所」から名付けられたと言われています。しかし、機械化による製氷が普及し、野呂山の天然氷は、明治末期に休止されました。今は底が抜け水は殆どありませんが、周囲の湿地帯には特有の昆虫や植物を見ることができます。
また近くに石碑があり、江戸末期から明治にかけ、この池を改修した時の苦労の様子が刻まれています。1847(弘化4)年玉木甚平が着工したものの、中断。1856(安政3)年から1878(明治11)年の年月をかけやっと完成、当時携わった松原孫右衛門という人が「(苦労が報われ)『苦しみが逃げていく池』=『苦迯池(くとういけ)』と号す」と結んでいます。結局この名前は、普及しませんでしたが…
◆野路神社跡◆
森の中に、突然現れる建物の基礎と思われる石組。きちんとした四角形で構造や規模、周囲の状況から、「野路神社」跡地に間違いなさそうです。
記録によれば、1834(天保5)年に豊作祈願のため、勧農坂紅葉カ畝の大亀岩に神社が建立されたとあります。その後野路神社は、1963(昭和38)年、戦後入植した人の住む場所により近い、十文字付近に移設されました。
厳しい自然の中、50年以上経過しても、その存在を静かに物語る場所です。
※現在の野路神社についての情報はこちら
◆石畳の道、農地、石の橋◆
石畳の道。道幅は意外に広く、城のような石積みの上には広い農地が形成されていたようです。別な場所には、段々畑の石積みと、野呂川源流の川にかかる石の橋。当時の開拓の面影が覗えます。
◆住居跡◆
住居があったと思われる場所です。井戸跡やコの字型の石積み。階段や水路は無く、どのように家が建てられていたか想像がかきたてられます。
◆墓所◆
木々に被われた墓所。亡くなられた方のお名前が刻まれ、明治42年建立とあります。