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玉伝(ぎょくでん)道路・了玄(りょうげん)坂
-- 玉伝道路(安浦町安登) --
-- 了玄坂(川尻町小用) --
-- 了玄坂(川尻町小用) --
江戸時代から,安浦町安登と川尻町小用は,旧賀茂郡「内海跡村」という一つの村でした。安登村を経て,昭和33年(1958)小用を除く安登は安浦町,小用は川尻町へ編入されました。
旧内海跡村は四方を山に囲まれ,三ヶ峠の項に登場した「浦辺街道」が東西に通っていました。村内の南西で海に面した小用とは,街道から分かれた急峻で細い山道のみで結ばれていました。
江戸後期,文政の頃(19世紀初め)同村の浄念寺住職「玉伝」は村人の難儀を見かね,私財を投じて道を広げ,峠の頂上を6尺(1.8m)切り下げました。通りやすくなったこの道を,村人は「玉伝道路」と呼び功績を讃えたのでした。
一方,小用側の急坂は「了玄坂」と呼ばれています。17世紀中頃の寛文年間,川尻村光明寺住職「了玄」は,当時の代官や庄屋が組み,重い年貢をかけていたことを,藩主に直訴しました。代官などは処罰されたのですが,直訴に及んだ了玄も,藩外追放の沙汰。了玄和尚追放の日,別れを惜しんだ多くの川尻村人は,三ヶ峠を越えて船の出る小用までやって来て,手を合わせながら見送ったと伝えられています。以後この坂が「了玄坂」と呼ばれるようになりました。
村が各町に編入されるまで,小用の子ども達は,安登にあった小学校や中学校に,この道を利用して通学したのでした。
所在地 | 玉伝道路-広島県呉市安浦町大字安登 了玄坂-広島県呉市川尻町小用2丁目 |
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アクセス | JR呉線安登駅から車で約5分(玉伝道路) JR呉線川尻駅から車で約10分(了玄坂) |
その他 | 玉伝道路は広島県の文化百選に指定されています。 |
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