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コンクリート船 武智丸
安浦町の三津口湾に堤防として横たわる武智丸は、終戦間際の日本の状況を語る生き証人です。
このページではその武智丸の詳細な歴史を記録します。
観光施設としての武智丸の情報はこちらをクリックしてご覧ください。
【コンクリート船の建造計画】
太平洋戦争直前の昭和16年,アメリカ等各国から日本への鉄や銅の輸入が全面的にストップした。戦争が始まると物資はさらに不足し兵器に使用する金属類は枯渇する。窮余の策で誕生したのが「コンクリート船」である。当時の日本ではコンクリート船の建造実績がなかったので,一部の者から「狸の泥船を造るのか」とののしられたらしい。
船の基本設計は遠山光一技術中佐,実施設計は舞鶴海軍工廠の林邦雄技術中佐が行った。 試験結果から十分満足できるものであり,本部に建造許可を求めたが,なかなか納得しなかった。
林中佐は様々なデータを示し,安全性・経済性に優れていることを説き,ようやく建造許可となった。
【武智造船所】
船は民間会社で建造することになり,大阪で土木会社を営む「武智正次郎」がお国のためにと名乗りをあげた。造船に無縁な彼は,林中佐とドック探しに奔走,兵庫県高砂市の廃塩田に決定した。素掘りした2基のドックを建設し,経営者の名前をとって「武智造船所」とした。
造船所の人集めは大変で近所の女性や塩田労働者など総勢600名でコンクリートの突き固め工事に従事した。最初に建造したのが全長51m・幅8.5m・深さ6.5mのエンジンを持たない油槽船だった。
姿は葉巻のような丸い胴体で,船とは言い難い姿だった。これを潜水艦で曳航し,前線基地へ燃料を運び,そのまま現地で桟橋や倉庫に利用する計画であった。5隻を建造し,呉海軍鎮守府へ納められた。その後の経緯は不明だが,現在1隻が呉市音戸町坪井で波止場の役目となっている。
【コンクリート貨物船】
戦況が不利になった昭和19年,鉄資材が窮乏する。武智造船所はこれまでのコンクリート船実績をもとに,エンジンを積み込んだ「貨物船」を建造することになった。この船は,石炭等軍需物資を運搬することを目的とした。
総トン数は800トン。戦況を考えると一刻も早い完成が待たれた。足場が井桁に組まれ,ジャングルジムのように配した鉄筋に型枠を張りコンクリを流し,一斉に長い竹竿で突き固めた。船底から甲板までを6層に区切り施工する。硬化している面にモルタルを塗り,凝固する前に次層のコンクリートを充填する。この工事が船の機密性を左右する大事な行程となる。一層の高さは約1.5m,厚みは約250mm,骨材(砂利)は揖保川下流の20mmのフルイを通過したものを使用した。
【貨物船「武智丸」の誕生】
昭和19年3月,第一船が進水する。造船所の名をとり「第一武智丸」と命名。船体は武智造船所,エンジンやクレーンの艤装は三井造船玉野工場で行った。艤装の取り付けは困難を極め,装置が不安定で動きやすかったり,負荷がかかる部分は埋まっている鉄筋と絡ませて固定しなければならなかった。
水密製を確保するため外周を1.6mmの鋼板で覆う計画もあったが,水漏れの問題はなく中止した。しかし,船首部分だけは衝突時の破壊を防ぐ目的で約2cmの鋼板を張り付けた。 武智丸は3隻が完成,第一武智丸は呉鎮守府,第二武智丸は横須賀,第三武智丸は佐世保鎮守府に配備され4隻目は建造途中に終戦となった。
※第一国策丸:終戦直後に竣工したコンクリート船。構造は武智丸とほぼ同じ。
【武智丸の仕様】
全長64.5m/幅10m/深さ6m/総トン数/800トン重量トン数980トン/ 載貨容積1,450㎥/ 速力9.5ノット
■機関関係
エンジン:三井玉,ED 竪型単動 ディーゼル機械
■武智丸に要した材料
鋼材135トン/擬装用木材237石/型枠木材1200石/セメント170トン/川砂255トン/骨材510トン
【武智丸の就航】
呉海軍工廠総務部運輸係・海軍工手太田利一船長が第一武智丸の船長に任命される。乗組員は20名。注意事項は「コンクリート船だから,コツンと当たったら一発で終わりだ。夜は航海せんほうがよい」と言われた。しかし,武智丸は頑丈だった。神戸港で後方から来た鋼船に追突されたが,相手が沈没した。
昭和19年5月から,八幡製鉄の鋼材,筑豊の石炭,関西の軍需品を呉工廠へ運搬した。 「コンクリートなので吃水が上がらず,乗り心地は上々でエンジン音も小さく揺れも少なかった」と太田船長は回想している。
昭和20年5月,最後の航行のとき,大阪港を出て神戸港に行くと空襲を受け多くの鋼船が炎上していた。 先行する鋼船が突然水しぶきを上げて沈没した。機雷に触れたのである。当時瀬戸内海は米軍機によって機雷が投下されていた。金属でない武智丸は様々な海域で爆発することなく航行した。
【武智丸が防波堤になるまでの経緯】
昭和20年9月の枕崎台風で三津口湾は甚大な被害となった。当時三津口湾は防波堤がなく,度重なる被害を受けていたので,昭和22年,安浦漁協菅田国光会長は防波堤設置を県に陳情した。しかし港の地盤が軟弱で当時の土木技術では対応が困難であった。 そこへ,戦時中航行していた「武智丸」を防波堤に使ってはどうかという話が舞い込んできた。
防波堤として使えそうな2隻の武智丸を財務局に陳情した結果,払い下げが認められた。 第一武智丸は呉から,第二武智丸は大阪からともに安浦漁港へ曳航された。 海底を浚渫(しゅんせつ)し、粗石沈床の上に置換砂を敷き、その上に武智丸を沈設。捨て石を置いて船体を固定した。費用は当時のお金で800万円であったという。これによって第一と第二「武智丸」は防波堤として第二のお役目に就くことになった。
昭和48年に漁港整備計画で撤去する話も出たが、船が強固なため保持し引き続き防波堤の役目を担う。その後、一部の埋立てと防波堤が造られたが,コンクリート船2隻は今もその姿を残している。
現在の武智丸『さまざまな角度から』(以下の写真も全てクリックで拡大できます)